かふかログ

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勝手に写真論(?)

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写真。

 

皆さん何のために写真を撮ってますか?「いや別にそんな何のためにとか考えてねーよw」って言われるかもしれません。まあその通りです。歩いてて撮りたいから撮る。それで十分です。

 

うーむ自分は何を語ろうとしてるのか自分でもよく分からない状態でスマホを今叩いている訳ですが、一時期僕は「ああいう風に撮りたい!」「あの人みたいに撮りたい!」とかって思ってました。はたまた「自分が死んだ後にも自分の写真がこの世界に浮遊してたらなあ」とかよからぬ?ことを考えてた時期がありました。ただ、他の物事にも言えることですが、やりたい事にその上から動機付けを無理にしてしまうと、大抵なんやらあまり良くない方向に向かいがちです。

 

 

 

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そういう事を考えずにただただ頭をフリー(というかまあ普通にしてるw)にしていたら「これ撮りたい!」「今!この画!」と降ってくる時が多々あります。その時にパシャリとシャッターを切る感覚。いいですよね笑 

 

ただ撮りたいから撮る。撮るために撮る。そしてその切り取ったその感情を人と分かち合えたらいいなあと思うわけです。

 

呼吸するようにただただ撮る。そんな風になりたいものです。

 

 

 

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とまあここで終わろうと思ったのですが、思い出しました笑  もうむっっさ素敵な写真を撮ってる方がいるのです。僕の独断と偏見ですが笑  「方」というより「子」です。13歳の女の子です。

 

この方

http://instagram.com/5__shioo

 

いやもうなんというか、ふとした日常を切り取っているのですが、写真からその独特の温もり、切なさ、優しさ、人、といったものが伝わってくるのです。で、たぶん同じように撮れそうで撮れないです笑  まあそれが彼女の個性というものだと思うのですが。是非、ちぇけら してみてください。

 

 

以上であります。

ありがとうございましたー

FUJIFILM Xpro2 フィルムシミュレーションを実例で紹介

えーと、カメラ記事朝書いて、なんか楽しいので、もう一個書きます。調子乗ります。よ。笑

 

僕の今の go to gear はFujifilm Xpro2です。レンズは、フジノンレンズ 35mm単焦点 f値2です。ん?go to gearって? いやこれかの有名なtuckさんがそう言ってたんです。僕の今の「愛機」というところでしょうか。下記動画参照ください笑

Through The Lens | S03E01 - @_tuck4 - YouTube

 

 

で今回は、とりあえずXpro2の全フィルムシミュレーション(白黒、セピアの一部はしょります。すいません。)をどどどっと紹介します。下記が実例です。夕日と桜でお楽しみください。

 

 

まずは、 夕日から。全て露出0、ISOオート、F値オート、全部デフォルトです。

画像の上にフィルムシミュレーション名を書いときます。

 

 

PROVIA 最もベーシックな設定

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VIVID  その名の通り、色がヴィヴィットに出ます。強調される。

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SOFT   柔らかくなります。まだ使い勝手分かってません。。

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CLASSIC CHROME   シャドーが重くなります。シックになります。とりあえずこれで、カッコよくなります笑

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NEG HI   えーとまだよく分かりません。。

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NEG STANDARD   コントラストを抑えて、淡い感じになります。

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ACROS  新しいモノクロ

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モノクロ

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 えー夕日だと違いが分かりにくいかもしれないので、次は桜でいきます。

露出+1/3です。後はデフォルト設定。

 

 

 

PROVIA   

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VIVID

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SOFT

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CLASSIC CHROME   桜カッコイイ!w

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NEG HI

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NEG STANDARD

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ACROS

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モノクロ

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以上です!

違い伝わりましたでしょうか? 正直僕も使いこなせてないので、とりあえずだだだっと載せてみました。ちなみに僕が多用してるのは、PROVIA, CLASSIC CHROME, NEG STANDARD, ACROSです。

 

ご参考になれば嬉しいです!

 

ではー 

FUJIFILM Xpro2のPROVIAで撮る桜

今回は写真記事にしようと思います。

 

僕は3ヶ月ほど前に趣味でカメラを始めて、NIKON 5500→FUJIFILM X-pro2とまあ初心者にも関わらず買い換えたわけであります。しかもボーナス払いです。今月で会社辞めるというのに。まあそういうバカな奴であります笑

 

で、最近気づいたのが、Fujifilmカメラの色の良さです。Fujifilmのデジカメには色々なフィルムシミュレーションがあって、僕は今までずっとシャドーが強めに出てシックに撮れる「クラッシッククローム」と新しいモノクロの「ACROS」を使っていたのですが、下記の記事を読んで、Fujifilmカメラの最もスタンダードな設定である「PROVIA」の素晴らしさに気づきました。ああこれがFujifilmそのままの色なのだなあと感じ、ちょっと感動しました。

 

m.facebook.com

 

では、今日家を出てとっさに撮った桜の写真を実例として載せておきますね。全てフジノンレンズ単焦点35mmでPROVIA、露出+1/3, ISOオート、f値オートです。一部f値2で撮ってますがどれか忘れました 笑 

PROVIAはとにかくFujifilmの発色の良さがよく表されてると思います。

 

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以上です。

 

ではー

 

村上春樹を読むと不幸?それにもかかわらず僕が思う村上春樹のすごさ

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かふか です。

 

以前、僕の学生時代の友人が言っていたのを思い出しました。

 

「私は村上春樹の小説が好きだけど、村上春樹にハマった事が自分にとって幸せなことだったのかは自分でも分からない」と。

 

ん〜なんるほどなあと僕は思いました。かく言う僕も同じ心境だからです。僕は村上春樹ファンですが、村上春樹という作家には、明らかに中毒性があります。もしかしたら、知らぬが仏で、ある人にとっては知らなかった方が幸せだったかもしれません。よく言われるように、村上春樹は好きな人はとことん好きですが、嫌いな人はとことん嫌いです。

 

まあ彼の作品が好きか嫌いかを議論しても実りはないと思うので、それにもかかわらず僕が村上春樹のここが魅力だと思う点を挙げてみます。 

 

ささいな日常へのまなざし

作家は自分の価値観や思想を物語として体現させますが、少なくない作家が観念的になる傾向があります。例えば、三島由紀夫。『金閣寺』に代表される彼の小説には、強烈なまでに徹底的な美意識が貫かれています。自分の情念を金閣寺を燃やすという事により、絶対的な美に昇華する様に。彼の作品は、それはそれで文学的芸術的価値が確かにあります。文学史的に名が残る価値があると思います。ただ、それを読者が自分の生活に落とし込めるかと問われると疑問です。彼の作品はあくまで、額に飾っておくような芸術作品に思えてなりません。川端康成、芥川龍之介にしても然りです。

 

対して、村上春樹の小説は、退屈なほどまでに、主人公の日常風景を描写します。一挙一動を描きます。ひどい時は、その描写だけで一つの章が終わることもあります。「パスタを作っていた。その時こんな音楽を聴いていた。」「イライラしていた。アイロンを一枚一枚丁寧にかけた。」などなど。読者に「そこまでお前の日常に興味ないよ!」と言われんばかりに。

 

ただ、村上春樹は小説を書きながら、その様なささいな日常を描くことに何か大切なものを感じ、ある意味で意図的に描いていると思われます。観念的にならずに、現実を凝視しています

 

現実世界におけるグレーゾーン

作家ひいては芸術家というのは、多くの場合、観念的になりがちです。評価されるごとに自己顕示欲(?)が高くなり、その分だけ美意識も高まると言えばいいでしょうか。その意味では、村上春樹は泥臭い作家です。村上春樹は、自分の価値観や思想を作品として昇華させるというより、フィクションを通していかに現実を描くかいかに一つの物語を読者に提示できるかということに重きを置いています。

 

又、彼の作品に明確な答えはありません。物語の続きはあくまで読者にグレーゾーンとして委ねられています。この白黒決めないというスタンスは、村上春樹の作家としての読者に対する誠意であり、彼の倫理観になっているのだと思います。1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件から特に。以下の言葉にそれが現れています。

 

でも実を言えば私たちが林医師に向かって語るべきことは、本来はとても簡単なことであるはずなのだ。それは「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです」ということだ。「そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐することでしょう」と。

 

『約束された場所で』p329



Hands

身体的感覚の大切さ

観念の世界だけに入り込まないという村上春樹の態度は、彼がランナーであることからも見て取れます。おそらく、村上春樹ほど体を動かしている作家は日本にいないのではないでしょうか(僕が知る限り。海外には多く見られますが)

 

彼は長編小説三作目の『羊をめぐる冒険』を書くあたりから、煙草を絶ち、ランニングを始めています。専業作家として生きていく上で、身体的感覚の大切さを直感的に感じたのしょう。

 

後から考えると、村上春樹のこの《身体性》は、1960年〜1970年ひいては僕らのインターネット世代への反論のように思われます。 理想やイデオロギーを語る、二次元などような空想の世界に浸るのではなく、もっと自分の《からだ》に戻れと。自分の足元を見ろと。そこからしか現実的な物事は始まらないのではないかと。

 

村上春樹は彼の超現実的な(あり得ない出来事が多々起こる)小説から一見、夢想家のように見えますが、その実は徹底的なリアリストです。自分の《からだ》の感覚を大事にし、そこから一歩一歩ランニングするかの如く物語を紡ぎ出す作家だと思うのです。

 

 

以上

かふか 

文章を書くという自己表現に向いている人って? 3つの仮説

Writing

かふか です。

 

はてなブログを始めて、大体三ヶ月が経ったのですが、まことに文章を書くというのは、精神衛生上すこぶる良い影響があるなあと思うのです。もちろんブログという形なので、このネット上の誰かしらに自分の書いた記事が見られ得るという承認欲求も、それはそれは否定できないのですが、それ以上に自分の思いの丈を文字にして表すという事に底知れぬ何かがあるとしか思えないのであります。(なぜか『マツコ&有吉の怒り新党』のナレーターの語調になってしまっている・・・のであります)

 

ブログというのは、自己表現の一つです。ただ、自己表現という観点だけから考えると、音楽を作曲するのだって自己表現であるし、絵を描くのだって、陶芸をするのだって自己表現です。僕は数年前まで音楽をやっており、ずっと曲を作っていました。それをバンドで表現したりしてました。もちろん、それはそれで自分の感情を音楽という形に表すことによって、充足感はありました。ただ、今思うのが、自分には文章を綴っていく方がより充足感が高いということです。たぶん、これは僕という人間が、上手い下手は別にして、文字における表現の方に向いていたからでしょう。

 

というわけで、勝手ながら、以下にどのような人が文章による自己表現により向いているか、より充足感を感じやすいかという事について、仮説を立ててみました。まことに勝手ながら。

 

※「文章を書くこと」の精神衛生上の効用について、書こうとしましたが止めました。こっちの方が、面白いかなと思ったので。

 

1.  アドリブが利かない人、石橋を叩きまくって渡る人

僕は長いこと音楽をやっていたので思うのですが、多くの自己表現はやり直しが容易ではありません。音楽の場合、もちろん自分だけで曲を創っている時は、何度も練り直すことができます。「ここのパートはコードが合ってないから変えよう」とか。しかし、音楽の最も輝ける表現場であるライブではやり直しはききません。演奏をミスすれば、ミスになります。もちろん演奏し直すことはできますが、ライブで普通それはやりません。音楽はあくまで時間における自己表現なので、曲のある時点でミスるとそれは取り返せません。

 

絵はどうでしょう。絵もやり直しは難しいのではないでしょうか。壁画なんかにペイントしていて、ペンキをミスったらアウトです。たぶん。まあ修正の手段は色々と持ち合わせてはいるのでしょうけれども。デッサンにしても、そりゃ鉛筆で書いていれば、消しゴムで消せますが、大きくミスした時はなかなか厄介でしょう。

 

昨今、趣味として人気の陶芸にしても同じです。(僕も一回だけ陶芸体験したことがありますが、)陶芸は、ろくろの上で指が滑ったら致命的です。ぐにゃってなります。

 

カメラは? 静止しているものや情景であれば何度も撮り直せますが、動いているものに対しては、そうはいきません。その一瞬を捕えなければなりません。シャッターチャンスは一度きりです。 

 

ではでは、やっときました。文章を書くというのはどうでしょう。今の時代ほとんどの人は、キーボート(スマホであればテンキーかな)で文章を綴ることができます。「なんか文章ミスったな」「文脈がはっきりしてないな」と思えば、Delete keyを押せばいいだけです。いっぺんに消したければ、その部分を選択してDeleteです。文の構成を変えるためのコピペも容易です。つまり、簡単にやり直すことができるのです。リライトです。即興性に長けていなくても、じっくり何度でも推敲して投稿(本番)できます。コーヒーでも飲みながらじっくりと。

 

※こんなこと言ってるのに何ですが、個人的には文章を書く時に、ある程度の即興性は大事かなと思っています。べつに時間に縛られることはないですが、ある意味短い時間で、即興的にダーーっと書き連ねる方がいい文章が書けるのではないかと思うからです。僕が敬愛する作家の村上春樹も即興的な書き方です。構成などあまり練らずに、白紙にアドリブで物語を紡いでいく作家です。

 

 僕がブログの記事を書こうと思ってキーボードの前に座るとき、よくこんな声が聞えてきます。

 

さあ、じっくり羽を広げて書いてごらんなさい。時間はたっぷりあるんですよ。後からちょこっとだけ修正もOKよ」と。僕は「はい。」と頷いて書き始めます。

 

 

Writing

 

2. 右脳ではなく、左脳で考えるタイプの人

これはホント仮説ですが、おそらく文章を書くのに向いている、ないしは充足感を覚える人というのは、物事を現実的に理性的に考えるタイプなのではないでしょうか。一つ一つ筋を追っていきながら、時間をかけてやっと腑に落ちるタイプ。いわゆる左脳タイプの人。人間がもつ表現の手段として、文字というのは一番直接的で理性的です。

 

対して、より抽象的で自分でも自分が表現していることを完全には理解していないような人は、絵とか音楽に向いているような気がするのです。より抽象度の高いものでもって、満足するタイプです。右脳タイプでしょうか。たぶん、このタイプの人からすると、小説なんかは、直接的で説明的過ぎるのではないでしょうか。それよりも、一枚の一瞬の情景でもって、現実を捉える方が好みなのではないでしょうか。

 

 

3. 「書く」以外において、自己表現の手段をもっていない人

最後はこれです。書くというのは、最も敷居の低い表現方法です。楽器が弾けなくてもいいし、絵がうまくなくてもいいし、手先が器用でなくてもいいのです。読み書きができれば表現が可能です。

 

べつに文章力がなくても、熱意をもって書けば、人にちゃんと伝わります。音楽なんかはいくら熱意があっても、音が外れていては正直聞いてられません。日本における識字率からみても、義務教育を受けた人であれば、ほとんどの人が読み書きはできるでしょう。漢字が分からなくても、今やパソコンが変換してくれるのですから。

 

 

と、まあ僕が考える「文章執筆に向いてる人」論はこんな感じです。最後はジリ貧になってしまいました・・。まあけど、文章書いてて「楽しいなー」と思える人が一番向いているんじゃないでしょうか。というオチにしておきます。 

 

最後にこんな引用で終わらせて下さい。

 

弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。付け加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。

 

村上春樹『風の歌を聴け』p8-9

 

はい(笑)

では。

かふか

toe ポストロックバンド/ 命ある限りこのバンドの素晴らしさを伝えたい

Headphone

かふか です。

 

音楽聴いてますか?  音楽というのは、一般的に多くの人が思春期の時から聴き始めるものでしょう。思えば僕も中学生の時から、(まだ当時はMDの時代でしたが)色々と聴き始めました。

 

 

音楽は、最も手軽に聴き手の世界を構築してくれる芸術

人は思春期から自分の世界を創っていこうとします。自身のアイデンティーを創り上げていこうとします。

 

音楽というのは、それをするのにおそらく最も手軽にできる芸術ではないでしょうか。文学ほど自発的に文字を追う必要はないし、映画ほどストーリーに注意を注ぐ必要はないし、アートほど鑑賞力は必要ありません。イヤホンを耳につけるだけで、もうそこには一つの世界が流れ出します

 

そのため、芸術というカテゴリーの中では、一番パイが大きいです。別に芸術とかそういうアンテナが強くない人でも、誰しもが日常的に接しているものです。僕は音楽というのは、他の芸術と比べて最も伝染力があり、いとも簡単に人の心に届くものだと思っています。

 

 

世間ではマイナーだからこそ、ここで伝えたい

その中でも、僕が特に紹介したいアーティストがいます。

 

なぜわざわざブログの一記事を割いてまで紹介するかというと、たぶんほとんどの人が知らないアーティストだからです。一般的にはマイナーだからこそ、多くの人に彼らの素晴らしさを知ってもらいたいと思い、今こうして僕はキーボードを叩いています。

 

もしかしたら、勝手な押し付けかもしれません。でもいいのです。魂が揺さぶられる、僕はその感覚を伝えたいだけなのですから。

 

 

世界屈指のポストロックバンド『toe』

さて、前置きが長くなってしまいました。僕の一番の一押しアーティストは、『toe』 というバンドです。日本語で トー と読みます。(え?もう知ってるって? それでしたらこんな前置きなどいらなかったでしょう。ごめんなさい。でもたぶん僕はあなたとすぐ友達になれます)

 

toe は、インストゥルメンタルバンドです。略してインストバンドです。人の声を用いず、(たまにボーカルが入る楽曲もありますが)楽器だけで演奏するバンドです。

 

バンドと聴いて拒否反応を起こした人は、今すぐこのページを閉じた方がいいでしょう。ただ安心してください。バンドといっても、そんじょそこらのガチャガチャうるさいだけのバンドではありません。情緒豊かであり、力強くもあり、聴くものに生と死を思わせ、圧倒的な臨場感を見せつけてくれるバンドです。

 

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引用: toe [NO MUSIC,NO LIFE. メイキング] - YouTube

 

toe は、日本のバンドですが、僕は正直初めてtoeを聞いた時、自分が日本人であることを誇りに思いました。同じ日本に住む人がこんな素晴らしい世界を生み出しているのかと。そして、その音楽が世界の音楽好きの心に響いているのかと。(toeは、インスト界隈では世界でも指折りのバンドです。日本よりむしろ世界での方が評価が高いでしょう。芸術志向の高いヨーロッパなどで特に好まれているようにに思われます)

 

まあ、でもそんな難しいこと考えなくても単純に toe はカッコいいです。正にイケてます。toe を聴いて、皆さんの音楽的世界観が少しでも広がれば幸いです。

 

詳しくは僕が薦める曲を厳選している以下の記事を参照してほしいですが、この記事でも何曲か載せておきます。

 

参照:インストバンドなら toeを聞け!!/日本の誇り/ ポストロック【名曲厳選】 - かふかログ

 

www.youtube.com

いきなり冒頭にボーカル入ってますが、あくまでゲストボーカルの声です。上動画では、録音した声を始めと終わりに流してます。あと曲名は『after image』です。動画内でのタイトルは間違えてますね。

 

www.youtube.com

これも動画内曲名間違えてますね。正しくは、『long tomorrow』です。

 

www.youtube.com

激しめがお好きな方はこちらをどうぞ。toeの中で一番ガツんとくる曲です。

 

 

バンドを本業としていないバンド

最後にバンドメンバーを紹介しておきましょう。

 

2人のギター、ベース、ドラムの4人編成のバンドです。(+サポートのキーボードがいます)

 

ギター: 山嵜廣和 (空間デザイナー)

ギター: 美濃隆章 (レコーディングエンジニア)

ベース: 山根さとし (アパレル経営者)

ドラム: 柏倉隆史 (プロドラマー)

 

彼らは、このバンドを本業とはしていません。上記()内の通り、各々に他に仕事をもっています。ただ、だからこそ彼らは本当に表現したい音楽がこのバンドでできるのです。金というものに惑わされずに、表現したいものを表現しているのです

 

以上、toeについて、こんな所でしょうか。

 

※僕は、toeのような玄人音楽だけでなく、一般的な音楽ももちろん好きです。最近でいえば、宇多田ヒカルです。昔から好きなのはスピッツ。それらについては、折に触れて記事にあげていきたいと思います。

 

では。

かふか

カメラを片手に自転車でふらりと。

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かふか です。

 

気付いちゃいました。カメラと自転車の相性が良いということを。なんかいいんです。

 

 

自転車という乗り物

僕は最近一眼レフカメラを始めたビギナー中のビギナーなのですが、自転車は毎日会社通勤のために乗っています。いわゆるクロスバイクというやつです。

 

クロスバイクは、ママチャリより断然に速く軽く、ロードバイク(ハンドルが曲がってるもの)よりガチじゃない自転車です。毎日大体、片道10kmを30分くらい走ってます。家の近くから市内まで、ちょうどサイクリングロードがあるので、そこを朝から漕いでます。

 

 

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2016 Giant Bicycle [ESCAPE AIR]

 

こいつです。Giantという自転車メーカーで、クロスバイクの中では極めて王道と言えるかもしれません。鮮やかなマットグリーンに白。色にやられて買ってしまいました。

 

当たり前ですが、自転車は移動手段としては断然車より劣ります。移動できる距離が違います。

 

ただ、僕は車にはあまり惹かれませんでした。なぜでしょう。車というのはなんだかどうしても機械を動かしている感じがするからです。メカニックに操作するというか。ヘタすると、車という機械にコントロールされているという感が否めません。

 

それよりも、もっと自然の力を借りて動く自転車に惹かれてしまいました。自転車は、あくまで自分の足で漕がなければ進みません。僕にとってはそれが何か大切な意味を持っているように思えてならない。まあ漕ぎながらそんな意味みたいな事を考えてる訳ではないですが。

 

 

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走りながら風を感じる

自転車のいいところは、自力で漕ぐという行為だけではありません。漕ぎながら、進みながら、風を感じることができます。

 

移動している感覚を、空気から直に感じることができます。木々が連なるサイクリングロードを走っていると、肌から、匂いから、耳からそれを感じることができます。

 

 

カメラに自転車を。自転車にカメラを。

そんな自転車に乗って、ふらりと少し遠くまで行く。そこでパシャり、またパシャりと写真を撮る。どこまでも自由な感覚です。休日の昼下がりには最高かもしれません。

 

カメラを持っている人は、そこに自転車を。自転車を持っている人は、そこにカメラを追加してみてはいかがでしょうか。よりカメラLIFE、自転車LIFEが充実するかもしれません。

 

個人的にはもっとカメラを勉強せねば。いい写真を撮り、いい現実を切り取りたいものです。

 

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では。

かふか

柔らかな魂 / このことばいい響き『村上春樹 雑文集』より

Sunshine

かふか です。

 

柔らかな魂

 

やわらかなたましい

 

なんていい響きなんだろう。いい響き、心地よいこの言葉。

 

 

変わりうるこの心

今日仕事中にふと、この言葉を思い出しました。たしか、村上春樹が『村上春樹 雑文集』の中で語っていた言葉。

 

これは、村上春樹が自身の小説『海辺のカフカ』の中国語版のために書いた序文のタイトルだそうです。中国語版の序文なので日本では読むことができないため、この雑文集に収められたそうな。

 

村上春樹は『海辺のカフカ』を書くまでは、基本的に主人公を20代〜30代の男性に設定しており、その主人公たちの価値観は既にある程度固まってしまっています。かたや『海辺のカフカ』では、15歳の中学3年生の少年が主人公として描かれています。

 

でもこの作品の中で、僕が少年の物語を書こうと考えたのは、彼らが「変わりうる」存在であり、その魂がまだひとつの方向に固定されていない、柔らかな状態にあるからだ。

 

『村上春樹 雑文集』p473

 

参考までに: 

myeinst.hatenablog.jp

 

ゼロに戻りたい。その柔らかな。

僕らは大人になるにつれ、価値観や考え方が固着していきます。それがいいことなのか悪いことなのかは僕には分かりません。僕には判断がつきません。

 

ただ、たまにそんな固着した価値観を放り出したくなる時があります。放り出してもとのゼロに戻りたい。もとの柔らかな状態に戻りたい、と。

 

柔らかな魂は、たぶん不安定で脆く儚いものです。けれども、そこには何か大切なものがあります。そこには人が生きていく上で、大切なメッセージがあります。

 

やわらかなたましい。

とてもやわらかな。

とても。

 

 

と、僕は一体何を言いたいのでしょう?(笑) なんだか完全に「柔らかな魂」というその響きだけに導かれて、徒然なるままに書いています。でも、いいでしょう。そんな時があったっていいでしょう。だって、村上春樹も構成など特に考えずに、意図せず物語を紡いでいくのですから。(村上春樹とお前を一緒にするな!という声が聞こえてきそうです。)

 

でもまあとにかく、心が柔らかな状態は誰しも持った方がいいのではないでしょうか。「俺はこうだ!」「私はこうよ!」とかって思いすぎると人生疲れます。はじめはそう思ったとしても、精神が続きません。

 

それよりも、心のどこかに柔らかな、常に「変わりうる」部分があってもいいのではないでしょうか。それが自然だと思うのです。

 

なんだか僕のたわ言のような記事になってしまいました。すいません。

 

ただ僕はこうして自分の言葉を紡ぎ出すことによって、今は亡きスティーブジョブズが言った「その日寝る前に、『今日は素晴らしいことをした』と思えるような生き方をしなさい。」という、なんとなくそんな心境なのです。

 

自由に文章を書くってすばらしい。馬鹿ですね。

 

では。

 

かふか

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

 

 

《自己紹介》かふか って何者?

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※以下、2017年1月現在の情報

 

『かふかログ』 村上春樹 とその周辺

ブログ『かふかログ』に訪問頂きありがとうございます。かふか と申します。

 

かふか というペンネームは、予想が付く方もいるかもしれませんが、僕が好きな作家 村上春樹の小説『海辺のカフカ』から取りました。片仮名だとそのままなので、ひらがなにしたという安易な考えです。

 

参考までに:

myeinst.hatenablog.jp

 

 

関西在住、20代♂、普通のサラリーマンです。

好きなものは、村上春樹、宇宙、音楽、アート、映画、旅、文章を書くこと・・・

 

 

とまあ羅列していっても、上っ面だけで、僕の芯みたいなものはなかなか伝わらないと思うので、あえて2つの言葉で語ってみたいと思います。これが今までの僕の人生の世界観を決定づけてきたものだからです。たぶん。もちろん新しい価値観も今後取り入れていきたいですが、20数年生きてきた価値観はそうそう簡単に変わるものではありません。

 

 

物理学村上春樹

 

この2つ。

 

 

物理学との出会い / この宇宙の美しさ

※物理学という言葉に拒否反応がある人は、下にスクロールを。

 

僕はあまり面白くなかった高校時代に物理学という世界に出会いました。

 

物理学と聞いて、何をイメージしますか?小難しい数式を前に、しかめっ面で机に向かう研究者でしょうか?世間になど一切興味を示さず、宇宙の世界に没入する姿でしょうか? おそらく、一般的にイメージしやすいのは、福山雅治が演じた天才物理学者ガリレオでしょう。唐突に思い立ったように、数式を壁になりふり構わず殴り書くあの様。

 

世間で考えられている通り、物理学には難しい数式がわんさか出てきます。ただ、数学は物理学にとって手段でしかありません。この美しい宇宙を理解するための手段です。

 

例えば、アインシュタインのE=mc² という式。この驚くほどシンプルな数式には、僕らの住むこの宇宙の深淵が隠されています。

 

また、相対性理論によると、「《時間》の長さは絶対的なものではなく、各々の人にとって異なる相対的なものである。Aさんの1分間とBさんの1分間の長さは異なる。その違いを僕らが感じれないのは、僕らの動く速さが秒速30万kmで進む光と比べてあまりにも遅いから」とか。ここらへんでやめましょう(笑)続けると長くなりそうなので。

 

とにかく、僕は高校時代に、物理学によって世界の見え方が変わってしまいました。宇宙ってこんなに美しいのかと

 

 

Armonioso caos



村上春樹との出会い / 人間というカオスの世界

ただ、僕を含めるその宇宙を見つめる人間というものは、そんな数式などで簡潔に語ることはできません。もっと掴み所のないもので、カオスの世界です。

 

その後、僕は神経症やら何やらで悩むことになります。僕は明らかに今でいうところのHSP(Highly Sensitive Person)でした。そんな暗闇の中、出会ったのが作家 村上春樹です。彼の小説の中で、まさしく僕を示唆する文章がありました。

 

「そうだな。実際の人生は数学とは違う。そこではものごとは最短距離をとって流れるとは限らない。数学は僕にとって、なんて言えばいいのかな、あまりにも自然すぎるんだ。それは僕にとっては美しい風景みたいなものだ。ただそこにあるものなんだ。

 

『1Q84 BOOK1 前編』p113

 

上記の「数学」を「物理学」ととらえると、まさに僕の今の考えと同じです。僕は大人になるにつれ、人生を最短距離で計ることは難しいと悟り、割り切れない人間の内の世界や不条理な世界をフィクションを通してありありと見せてくれる村上春樹の小説にハマっていきました

 

村上春樹には、小説からだけでなく、彼の生の声であるエッセイからも強く影響を受けました。

 

1955年地下鉄サリン事件の首謀者の1人、林郁夫 元医師に対して、村上春樹はこう語っています。

でも実を言えば私たちが林医師に向かって語るべきことは、本来はとても簡単なことであるはずなのだ。それは「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです」ということだ。「そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐することでしょう」と。

 

『約束された場所で』p329

 

オウム真理教の幹部の多くが、物理学や医学などの真理・理想郷を希求する学問を学んでいました。彼らは強くそれらを求めすぎたが故に、学問には諦めをつけ、オウム真理教という架空の絶対的ユートピアに走っていってしまったのです。

 

これは僕にとっては、人ごとではありませんでした。僕も物理学という完全無欠な真理に強く惹かれていたのですから。今でも物理学は好きです。ただ絶対的なるものに突っ走るのは、人間としてリスクがあることを村上春樹から強く学んだのです。

 

 

以上、長くなってしまいましたが、僕の根っこを語るとしたらこんな感じでしょうか。僕自身もまだ自分でよく分からない部分があります。まあでもそれでいいと思うのです。

 

 

このブログでは、村上春樹を中心に、皆さんの心に何かしら響けるような記事を書いていきたいと思っています

 

では、よろしくお願いします。

 

かふか

僕にはサラリーマン飲み会での会話が刺さらない。

Drunk

かふか です。

 

以下内容、黒いかもしれません。

 

先日の記事に繋がるのですが、やはり僕は少し病んでいるのでしょう。普通のレールの価値観ではないのです

 

myeinst.hatenablog.jp

 

会社帰りの立ち飲み屋

今日は花金ということで、会社で上司後輩と飲みました。立ち飲み屋。そこで3時間ほどでしょうか。喋りながら飲んでいました。僕は普段、飲みに誘われても結構断るタイプなので、今日は例外的でした。たまたま気分が乗ったのです。

 

僕ら3人が飲んでいると、数人の常連客が隣に来ました。彼らも明らかにサラリーマンの会社帰りです。僕の上司と後輩もその立ち飲み屋では常連でした。つまり僕以外、皆顔が知れているという訳です。

 

前もって言っておきたいのですが、僕の上司と後輩はとても良い人です。僕にとって特別興味惹かれるような人たちではないですが、悪い人達ではない。見たところによると、隣に来た常連客もそのようでした。

 

彼らは、仕事の疲れであったり、家庭の愚痴であったりと、それを軽やかなジョークに変えて、笑いを肴にしてお酒を楽しんでいました。そんな会社帰りの光景。平日の夜、日本において多々ある光景でした。

 

 

飲みの会話に心が踊らない

もちろん僕も面白いと思った時には笑います。話を振られれば喋ります。ただ、根本的にその場で繰り広げられる他愛のない話にどうしても心がついていかない。心が踊らない。僕もお酒を飲んでいるので、ある程度気分は高揚してるはずなのですが、その会話がまるで永遠のように感じられます。時の流れが遅くなったかのように鈍化します。これを永遠と続けて何の意味があるのしょうか。仕事で削ぎ落とされた分をこの酒の場で埋めてプラスマイナスゼロ。それに一体何の意味があるのでしょう。

 

意味なんてなくていい。それがコミュニケーションであり共同体ではないか、と言われてしまうかもしれません。それはそうなのかもしれません。そこに何かしら「愛」が含まれていればそれで十分なのかもしれません。

 

 

末期の目で自分を表現し続けます

要は、僕にはそんな他愛のない会話に対する感度が低いのです。そんな話をいつまでも毎日のようにして何になるというのか、という煮えたぎった思いが心に渦巻きます。

 

他愛のないことに感度が低い代わりに、この世界の片隅にぽっと現れる美しい光景などに対しての感度は高いのです。意識せずとも自分の今までの人生はその感度を育てるためにあったのでしょうか。その末期の目のような感度を研ぎ澄まして、自分を表現し続けていくしか他ないのでしょうか。

 

突き抜けるか否か。それはもう自分次第なのです。

 

 

 

以上

かふか

病んでる人は、自己表現した方がいい。というか向いている。

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かふか です。

 

最近カメラを買いました。一眼レフカメラ。きっかけは他のカメラ好きな人のブログを見ていて、素敵な写真とともに文章を連ねている様がいいなあと思ったからです。

 

みんな自己表現したい。病んでいる人は向いてる。

ただ、理由はそれだけではありませんでした。結局僕はこの日常この世界を、カメラで切り取ることによって、自己表現してみたかったのです。現実をえぐってみたかった。現実をえぐれるような写真を撮る。これがカメラビギナーである僕の当面の目標です。結構大それたこと言ってるなあ。まあ、文章を綴る方が自分としては1番しっくりくるのですが。

 

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ブロガーにしろ写真家にしろ小説家にしろ芸術家にしろ、結局みんな自己表現をしたいと思っています。根底の動機はこれに尽きるのではないでしょうか。そして、心底純粋にその表現するという作業を継続できる人というのは、やはりそれを続けないとやっていけない人です。簡単に言えば、何かしら病んでいる人。病んでいるほどその負のエネルギーを使って自然と自己表現ができるのです。

 

村上   芸術家 、クリエ ートする人間というのも 、人はだれでも病んでいるという意味においては 、病んでいるということは言えますか ?

 

河合   もちろんそうです 。

 

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』Kindle版  No.989

 

 

個人的な病みを普遍化させる

今は亡き臨床心理学者の河合隼雄と村上春樹のこの対談では、さらにこう続きます。

 

村上   それにプラスして 、健常でなくてはならないのですね 。

 

河合   それは表現という形にする力を持っていないとだめだ 、ということになるでしょうね 。それと 、芸術家の人は 、時代の病とか文化の病いを引き受ける力を持っているということでしょう 。ですから 、それは個人的に病みつつも 、個人的な病いをちょっと越えるということでしょう 。個人的な病いを越えた 、時代の病いとか文化の病いというものを引き受けていることで 、その人の表現が普遍性を持ってくるのです 。

 

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』Kindle版 No.989, 994

 

うーん、なるほど、個人的な病いを超えて時代とか文化のような自分を少し超えた病いを引き受けるかあ。なかなか難しいことを。ただ、確かに著名な作家やアーティストのような人たちは、個人的な病いに普遍性を帯びさせることに成功した人なのでしょう。だから多くの人の心にささり、評価されるのです。

 

要はこれって、簡単に言うと、自分の病みをうじうじと自己顕示欲の塊だけで語るのではなく、自分からふと離れる視点を持てた人、ふと離れてそれを語る手段を得た人なんじゃないでしょうか。

 

もちろんごく稀な天才は、100%自己顕示欲の表現だけで、自ずと普遍性を帯びさせることができるのかもしれませんが。

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An Art Show Explores How Jackson Pollock Learned To Drip | The Huffington Post

※画家のジャクソン・ポロックなんかはそんな天才に思えます。

 

 

僕にはまだ自己表現に対する明確な答えを持ち合わせてないですが、ブログを書くと言う行為もたぶん、「自分の心の叫びを語りつつも、それをちょっと客觀的に見てみること考えてみること」が大切なのではないでしょうか。

 

と言いつつも、そんな事を真剣に考えていては書けそうにないので、好きなように今後も書くのですが。

 

 

以上

かふか

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

 

 

村上春樹にみる書評の書き方/ あらすじの羅列に何の意味があるのか?

diary writing

かふか です。

 

多くの人がブログなどで書評を書いています。僕自身も含めて。

今回はそんな書評の書き方について、僕の考えを書いてみたいと思います。

 

"エモく"ない書評は好きではない

僕が見る限り、少なくない数の書評が単なるあらすじの羅列になっている気がします。あらすじをとりあえず並べて、最後にちょこっと自分の感想を書いて、それで満足気に「どうですかこの本?」みたいな書評。

 

いや、別に人それぞれの自由なのでどんな書評でもいいのですが、なんかつまらない。その本自体が輝いていても、その書評が文字の羅列では、その本を手に取るきっかけが減ってしまうのではないでしょうか。

 

とにかく、僕は書き手の感情の起伏が感じられない、俗に言うと"エモく" ない書評があまり好きではないのです

 

 

食欲をそそる書評

村上春樹は自身で、書評についてこう語っています。

筋をずらずらと書いてしまう書評って困ったものですね。とくに結末まで書いてしまうというのは問題があります。僕は自分の本の書評は読んでいませんので、この件で具体的に判断はできませんが、一般論で言って、書評というのは人々の食欲をそそるものであるべきだと、僕は思うんです。たとえそれが否定的なものであったとしても、「ここまでひどく言われるのならどんなものだかちょっと読んでみよう」くらい思わせるものであってほしい。それが書評家の芸ではないでしょうか。

 

『少年カフカ』p232

 

食欲をそそる書評

 

これです。正にこれ。

 

その本を褒めようが褒めまいが、その書評を書いている人が己の魂をぶつけないで、本当の書評と言えるのでしょうか? 書評において、本のあらすじなんて、その本を読めば分かるのだから、どれだけの熱量をもって多くの人をその本に誘い込めるかが勝負なのではないでしょうか。

 

だから僕は書評においてテンプレートを設けてるものが好きでない。「まず、その本の印象的だった部分を記事の頭で簡潔にpick upして、、その後にそれを細分化して、、ほにゃららほにゃらら」みたいなやつです。それより「私はこの本を読んでから良くも悪くも人生が狂わされてしまって、、」みたいなやつの方が断然いい。まあそこまで極端でなくてもいいのですが。

 

たぶんこれは本に限らず、映画のレビューにせよ、アートの鑑賞レビューにせよ同じです。どれだけ書評の書き手が自身の感情を揺さぶられた体験を言語化できるか。それを伝えられるか。書評とは、それに尽きるのではないでしょうか。

 

 

以上

かふか

 

※ちなみに僕の村上春樹作品の書評、というか感想は例えば以下なんか感情Maxです(笑) 

 

myeinst.hatenablog.jp

内田樹『村上春樹にご用心』にご用心/ 「崇拝者」による春樹論

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かふか です。

 

村上春樹ファンの僕が見るに、村上春樹の批評家として有名でかつ共感できるのは学者の内田樹です。僕は基本的に村上春樹の批評とかはあまり鵜呑みにしたくないのですが、ファンとしてはやはり気になります。

 

 

主観的な「崇拝者」による春樹論

内田樹の村上春樹論で有名なのが『村上春樹にご用心』という本です。今では増補版『もういちど村上春樹にご用心』が文庫本で出ています。ん? アンチ村上春樹の本かな?と思いきや、真逆です。

 

大学教授でもある内田樹は、村上春樹の小説が素直に好きなようです。多くの批評家に見られる、剣を振りかざすかのような論評ではなく、一読者として論じています。もちろん批評的視点も保ちつつ。そこが、僕がこの人の村上春樹論は信頼できるかなと思った所以です。

 

僕はご存じのとおり「評論家」ではなく「ファン」「崇拝者」というポジションから村上春樹を論じています。〔中略〕

(卒論でも、そんな書き方をしたら、ふつうゼミの先生から「そんなのは論文とは言わんぞ」と叱られます)。でも、僕はこういう書き方も世の中には必要なんじゃないかと思っています。

 

『もういちど村上春樹にご用心』p4

 

崇拝者(笑)。潔くて良い。というか一ファンとして論じなくては、批評なんてクソくらえだと言う春樹さんからは蹴飛ばされるでしょう。

 

 

村上作品に感じる"死"の影

さて、『もういちど村上春樹にご用心』の中で僕が一番深く共感した部分は以下の文章です。

 

村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している。

 

『もういちど村上春樹にご用心』p142 

 

『ノルウェイの森』なんかが分かりやすいですが、村上作品には基本的に”死”の影がそこらじゅうに横たわっています。それによって主人公は翻弄されながらも、何とか自分なりの生き方を模索していきます。

 

デビュー作『風の歌を聴け』のような一見 popな小説であっても、僕はそれを随所に感じてしまうのです。鼠と《僕》は、過去の膨大な(時に無意味とも思えるくらい不条理な)死者の影を背負いながら、彼らが既に去ってしまった後、とりあずビールを飲もうという諦観の中でのらりくらり生きているように思えてならないのです。

 

参考までに:

myeinst.hatenablog.jp

 

ただ、興味深いのが、初期村上作品ではそのように不条理性・空虚性を文学的に描くという所までで留まっていたのに対し、後期作品からは明らかにその世界と対峙していくという意志が感じられます。これがよく言われる、村上作品の世界に対するデタッチメント(無関与)からコミットメント(関与)へ移行していったという事なのでしょう。村上春樹自身のこの決定的な契機は、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件です。これについては、また他の記事に書きたいと思います。

 

 

不条理文学の継承

と、少し脱線してしまいましたが、まあとにかく、村上作品は不条理文学だと思うのです。フランツ・カフカやカミュのような文学を、popかつシューリアリスティック(超現実)的に受け継いだ文学だと思います。それだけで語ってしまっては、他のハルキストに怒られそうですが、村上春樹の作品の核はこんな感じだと思うのです。

 

 

以上!ちょっと難しいところもありますが、『もういちど村上春樹にご用心』読んでみてはいかがでしょうか? ファンとしては、とても楽しめました。

 

以上

かふか 

現代アートの島「直島」/ 地中美術館のジェームズ・タレルに驚いた

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かふか です。

 

現代アートの島、香川県の「直島」に行ってきました。僕は普段そこまで美術館に行く方ではないですが、「アートは実際に足を運んで、体感しろ。」と言われるのが今回でよく分かりました。ゾクっときてしまった。

 

以下に、その1作品イチオシを紹介します。

 

光の芸術家ジェームズ・タレル

僕が1番「こいつはやばい。ホンモノだ。」と思ったのが、地中美術館に展示されているジェームズ・タレルの『オープン・フィールド』という作品。

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 地中美術館 | アート | ベネッセアートサイト直島

 

この作品は一見、階段の上に青い平面があるだけのように見えますが、奥行きがありその空間の中に入れます。カメラ撮影禁止なので、言葉で説明するしかないのですが、とにかく僕は他の鑑賞者と一緒に案内人に導かれるまま中に入りました。

 

中は直方体の箱になっていて、青色の光が空間に四方八方反射し満ちていました。青色の蛍光灯が満ちた空間に僕らは呆然と立っていました。とても神秘的な空間でした。なるほど、現代アートは体感するものなんだなあと感心しました。

 

いやしかし、それだけではなかったのです。案内人に聞いたところ、僕が行き止まりと思っていた奥の平面は、実は平面でなく空間がさらに広がっているというのです。僕は思わず「え?」っと声に出してしまいました。案内人曰く、作者(と制作関係者?)以外、そのさらに先がどうなっているかは知らないといいます。ただ言えるのは、その先には空間が続いているが、目の錯覚で行き止まりの平面に見えるということだけでした。

 

その事実を知った時、その立ち入り禁止の奥は、死後の世界とか云々の虚構世界へと繋がってるんじゃないかと想像してしまったほどです。そのくらい驚きました。そう僕が感じたのも、ジェームズ・タレルの意図に、もはや含まれていたのでしょうか。

 

他にも、韓国の李禹煥というアーティストの作品に感心したのですが、僕の中では圧倒的にジェームズ・タレルが1番でした。

 

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アートは自然に帰っている

それで見終わった後、直島の自然の風景を眺めながら思ったのが、アートって今や究極の断捨離、究極のミニマリズムに向かってるのではないかということ。もうこの高度に発達し複雑に絡み合った現代社会からいかに離脱するかを志向してるんじゃないかって。「自然に帰る」の方向なんじゃないかって。

 

そしたらこの直島の風景こそが1番の作品なんじゃないかと思ったのです。「いやいやそれってなんなんだよ」と自分でも笑ってしまったのですが。

 

でも見当違いではないと思うんです。なんせ、直島自体が「自然と人間との関係を考える場所です」と謳ってるのですから。

 

結局、僕らにはもともと自然というものが既に与えられていて、それ以外は特別何もいらないのかもしれません。僕らの目の前に既に存在する「自然」こそが、1番のアートなのかもしれません。

 

 

以上

かふか 

映画『君の名は。』を見て、村上春樹を思った / "セカイ系" という共通点

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http://www.kiminona.com/index.html

※ネタバレ少しあり

 

かふか です。

 

今さらながら、映画『君の名は。』を見てきました。普段そこまで映画は見ないのですが、これだけは見ておかないと2016年という年を越せないと急に思ったからです。 

 

 『君の名は。』と村上春樹作品は、ともにセカイ系

で、とりあえず『君の名は。』を見て、その映像美や斬新なストーリー展開に感動したのですが、それ以上に見終わった後、この映画の世界観と村上春樹の世界観の共通点に思いを馳せてしまいました。

 

『君の名は。』のような世界観を世間では "セカイ系" と呼ばれています。最近の日本アニメーション映画に顕著なこの世界観、この言葉は一度でも耳にした事があるのではないでしょうか。

 

セカイ系の定義は、Wikipediaによると

 「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」

 

「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。

 

Wikipedia

 

ということです。

 

これを『君の名は。』 でいうと、「お互いに入れ替わる 瀧と三葉という2人の個人的問題が、隕石衝突という1つの"世界の危機"を巡り展開されていく」という事になります。

 

そして、村上春樹でいうと、まさに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 の物語です。主人公《僕》の周りで起こる物事が、社会の出来事や歴史などをスッと飛ばして、直接世界の終りへと繋がる物語だからです。

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

 

 

 村上春樹の小説は全てセカイ系

というか『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に限らず、『羊をめぐる冒険』も『ノルウェイの森』も『海辺のカフカ』も『1Q84』も、村上春樹の小説には "セカイ系" がその物語の根底に流れています。どの小説も基本的に、一般社会とは距離をとっている個人的な生き方を貫いている主人公が、その自我を世界の果てへと繋げていく物語だからです。

 

 

セカイ系は、今に生きる僕らの社会に近い

このように考えていくと、『君の名は。』のような映画や村上春樹の小説が現代の人々の共感を呼ぶのも分かります。

 

現代を生きる僕らは、インターネットや高度に発達した科学技術によって、自分の思考・行為を世界のどこにでも届けることができます。自分の考えを世界に発信したければ、インターネット上のSNSやブログで発信すればいいし、世界の果てのような島に行きたければポチッと航空チケットを買えばいいだけです。

 

 ただ、そのような個人が社会的規制やフィルター無しに、世界へ"むき出し" にされている状況は、自由であると同時に生きづらかったりします。

 

そんな僕らのモヤモヤ感に対して『君の名は。』や村上春樹の小説は、直接的では無いにせよ、何か訴えかけてくるものがあるのです。

 

 

以上、『君の名は。』を見てこんな事を思いました。

かふか