かふかログ

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カメラを片手に自転車でふらりと。

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かふか です。

 

気付いちゃいました。カメラと自転車の相性が良いということを。なんかいいんです。

 

 

自転車という乗り物

僕は最近一眼レフカメラを始めたビギナー中のビギナーなのですが、自転車は毎日会社通勤のために乗っています。いわゆるクロスバイクというやつです。

 

クロスバイクは、ママチャリより断然に速く軽く、ロードバイク(ハンドルが曲がってるもの)よりガチじゃない自転車です。毎日大体、片道10kmを30分くらい走ってます。家の近くから市内まで、ちょうどサイクリングロードがあるので、そこを朝から漕いでます。

 

 

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2016 Giant Bicycle [ESCAPE AIR]

 

こいつです。Giantという自転車メーカーで、クロスバイクの中では極めて王道と言えるかもしれません。鮮やかなマットグリーンに白。色にやられて買ってしまいました。

 

当たり前ですが、自転車は移動手段としては断然車より劣ります。移動できる距離が違います。

 

ただ、僕は車にはあまり惹かれませんでした。なぜでしょう。車というのはなんだかどうしても機械を動かしている感じがするからです。メカニックに操作するというか。ヘタすると、車という機械にコントロールされているという感が否めません。

 

それよりも、もっと自然の力を借りて動く自転車に惹かれてしまいました。自転車は、あくまで自分の足で漕がなければ進みません。僕にとってはそれが何か大切な意味を持っているように思えてならない。まあ漕ぎながらそんな意味みたいな事を考えてる訳ではないですが。

 

 

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走りながら風を感じる

自転車のいいところは、自力で漕ぐという行為だけではありません。漕ぎながら、進みながら、風を感じることができます。

 

移動している感覚を、空気から直に感じることができます。木々が連なるサイクリングロードを走っていると、肌から、匂いから、耳からそれを感じることができます。

 

 

カメラに自転車を。自転車にカメラを。

そんな自転車に乗って、ふらりと少し遠くまで行く。そこでパシャり、またパシャりと写真を撮る。どこまでも自由な感覚です。休日の昼下がりには最高かもしれません。

 

カメラを持っている人は、そこに自転車を。自転車を持っている人は、そこにカメラを追加してみてはいかがでしょうか。よりカメラLIFE、自転車LIFEが充実するかもしれません。

 

個人的にはもっとカメラを勉強せねば。いい写真を撮り、いい現実を切り取りたいものです。

 

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では。

かふか

柔らかな魂 / このことばいい響き『村上春樹 雑文集』より

Sunshine

かふか です。

 

柔らかな魂

 

やわらかなたましい

 

なんていい響きなんだろう。いい響き、心地よいこの言葉。

 

 

変わりうるこの心

今日仕事中にふと、この言葉を思い出しました。たしか、村上春樹が『村上春樹 雑文集』の中で語っていた言葉。

 

これは、村上春樹が自身の小説『海辺のカフカ』の中国語版のために書いた序文のタイトルだそうです。中国語版の序文なので日本では読むことができないため、この雑文集に収められたそうな。

 

村上春樹は『海辺のカフカ』を書くまでは、基本的に主人公を20代〜30代の男性に設定しており、その主人公たちの価値観は既にある程度固まってしまっています。かたや『海辺のカフカ』では、15歳の中学3年生の少年が主人公として描かれています。

 

でもこの作品の中で、僕が少年の物語を書こうと考えたのは、彼らが「変わりうる」存在であり、その魂がまだひとつの方向に固定されていない、柔らかな状態にあるからだ。

 

『村上春樹 雑文集』p473

 

参考までに: 

myeinst.hatenablog.jp

 

ゼロに戻りたい。その柔らかな。

僕らは大人になるにつれ、価値観や考え方が固着していきます。それがいいことなのか悪いことなのかは僕には分かりません。僕には判断がつきません。

 

ただ、たまにそんな固着した価値観を放り出したくなる時があります。放り出してもとのゼロに戻りたい。もとの柔らかな状態に戻りたい、と。

 

柔らかな魂は、たぶん不安定で脆く儚いものです。けれども、そこには何か大切なものがあります。そこには人が生きていく上で、大切なメッセージがあります。

 

やわらかなたましい。

とてもやわらかな。

とても。

 

 

と、僕は一体何を言いたいのでしょう?(笑) なんだか完全に「柔らかな魂」というその響きだけに導かれて、徒然なるままに書いています。でも、いいでしょう。そんな時があったっていいでしょう。だって、村上春樹も構成など特に考えずに、意図せず物語を紡いでいくのですから。(村上春樹とお前を一緒にするな!という声が聞こえてきそうです。)

 

でもまあとにかく、心が柔らかな状態は誰しも持った方がいいのではないでしょうか。「俺はこうだ!」「私はこうよ!」とかって思いすぎると人生疲れます。はじめはそう思ったとしても、精神が続きません。

 

それよりも、心のどこかに柔らかな、常に「変わりうる」部分があってもいいのではないでしょうか。それが自然だと思うのです。

 

なんだか僕のたわ言のような記事になってしまいました。すいません。

 

ただ僕はこうして自分の言葉を紡ぎ出すことによって、今は亡きスティーブジョブズが言った「その日寝る前に、『今日は素晴らしいことをした』と思えるような生き方をしなさい。」という、なんとなくそんな心境なのです。

 

自由に文章を書くってすばらしい。馬鹿ですね。

 

では。

 

かふか

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

 

 

《自己紹介》かふか って何者?

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※以下、2017年1月現在の情報

 

『かふかログ』 村上春樹 とその周辺

ブログ『かふかログ』に訪問頂きありがとうございます。かふか と申します。

 

かふか というペンネームは、予想が付く方もいるかもしれませんが、僕が好きな作家 村上春樹の小説『海辺のカフカ』から取りました。片仮名だとそのままなので、ひらがなにしたという安易な考えです。

 

参考までに:

myeinst.hatenablog.jp

 

 

関西在住、20代♂、普通のサラリーマンです。

好きなものは、村上春樹、宇宙、音楽、アート、映画、旅、文章を書くこと・・・

 

 

とまあ羅列していっても、上っ面だけで、僕の芯みたいなものはなかなか伝わらないと思うので、あえて2つの言葉で語ってみたいと思います。これが今までの僕の人生の世界観を決定づけてきたものだからです。たぶん。もちろん新しい価値観も今後取り入れていきたいですが、20数年生きてきた価値観はそうそう簡単に変わるものではありません。

 

 

物理学村上春樹

 

この2つ。

 

 

物理学との出会い / この宇宙の美しさ

※物理学という言葉に拒否反応がある人は、下にスクロールを。

 

僕はあまり面白くなかった高校時代に物理学という世界に出会いました。

 

物理学と聞いて、何をイメージしますか?小難しい数式を前に、しかめっ面で机に向かう研究者でしょうか?世間になど一切興味を示さず、宇宙の世界に没入する姿でしょうか? おそらく、一般的にイメージしやすいのは、福山雅治が演じた天才物理学者ガリレオでしょう。唐突に思い立ったように、数式を壁になりふり構わず殴り書くあの様。

 

世間で考えられている通り、物理学には難しい数式がわんさか出てきます。ただ、数学は物理学にとって手段でしかありません。この美しい宇宙を理解するための手段です。

 

例えば、アインシュタインのE=mc² という式。この驚くほどシンプルな数式には、僕らの住むこの宇宙の深淵が隠されています。

 

また、相対性理論によると、「《時間》の長さは絶対的なものではなく、各々の人にとって異なる相対的なものである。Aさんの1分間とBさんの1分間の長さは異なる。その違いを僕らが感じれないのは、僕らの動く速さが秒速30万kmで進む光と比べてあまりにも遅いから」とか。ここらへんでやめましょう(笑)続けると長くなりそうなので。

 

とにかく、僕は高校時代に、物理学によって世界の見え方が変わってしまいました。宇宙ってこんなに美しいのかと

 

 

Armonioso caos



村上春樹との出会い / 人間というカオスの世界

ただ、僕を含めるその宇宙を見つめる人間というものは、そんな数式などで簡潔に語ることはできません。もっと掴み所のないもので、カオスの世界です。

 

その後、僕は神経症やら何やらで悩むことになります。僕は明らかに今でいうところのHSP(Highly Sensitive Person)でした。そんな暗闇の中、出会ったのが作家 村上春樹です。彼の小説の中で、まさしく僕を示唆する文章がありました。

 

「そうだな。実際の人生は数学とは違う。そこではものごとは最短距離をとって流れるとは限らない。数学は僕にとって、なんて言えばいいのかな、あまりにも自然すぎるんだ。それは僕にとっては美しい風景みたいなものだ。ただそこにあるものなんだ。

 

『1Q84 BOOK1 前編』p113

 

上記の「数学」を「物理学」ととらえると、まさに僕の今の考えと同じです。僕は大人になるにつれ、人生を最短距離で計ることは難しいと悟り、割り切れない人間の内の世界や不条理な世界をフィクションを通してありありと見せてくれる村上春樹の小説にハマっていきました

 

村上春樹には、小説からだけでなく、彼の生の声であるエッセイからも強く影響を受けました。

 

1955年地下鉄サリン事件の首謀者の1人、林郁夫 元医師に対して、村上春樹はこう語っています。

でも実を言えば私たちが林医師に向かって語るべきことは、本来はとても簡単なことであるはずなのだ。それは「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです」ということだ。「そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐することでしょう」と。

 

『約束された場所で』p329

 

オウム真理教の幹部の多くが、物理学や医学などの真理・理想郷を希求する学問を学んでいました。彼らは強くそれらを求めすぎたが故に、学問には諦めをつけ、オウム真理教という架空の絶対的ユートピアに走っていってしまったのです。

 

これは僕にとっては、人ごとではありませんでした。僕も物理学という完全無欠な真理に強く惹かれていたのですから。今でも物理学は好きです。ただ絶対的なるものに突っ走るのは、人間としてリスクがあることを村上春樹から強く学んだのです。

 

 

以上、長くなってしまいましたが、僕の根っこを語るとしたらこんな感じでしょうか。僕自身もまだ自分でよく分からない部分があります。まあでもそれでいいと思うのです。

 

 

このブログでは、村上春樹を中心に、皆さんの心に何かしら響けるような記事を書いていきたいと思っています

 

では、よろしくお願いします。

 

かふか

僕にはサラリーマン飲み会での会話が刺さらない。

Drunk

かふか です。

 

以下内容、黒いかもしれません。

 

先日の記事に繋がるのですが、やはり僕は少し病んでいるのでしょう。普通のレールの価値観ではないのです

 

myeinst.hatenablog.jp

 

会社帰りの立ち飲み屋

今日は花金ということで、会社で上司後輩と飲みました。立ち飲み屋。そこで3時間ほどでしょうか。喋りながら飲んでいました。僕は普段、飲みに誘われても結構断るタイプなので、今日は例外的でした。たまたま気分が乗ったのです。

 

僕ら3人が飲んでいると、数人の常連客が隣に来ました。彼らも明らかにサラリーマンの会社帰りです。僕の上司と後輩もその立ち飲み屋では常連でした。つまり僕以外、皆顔が知れているという訳です。

 

前もって言っておきたいのですが、僕の上司と後輩はとても良い人です。僕にとって特別興味惹かれるような人たちではないですが、悪い人達ではない。見たところによると、隣に来た常連客もそのようでした。

 

彼らは、仕事の疲れであったり、家庭の愚痴であったりと、それを軽やかなジョークに変えて、笑いを肴にしてお酒を楽しんでいました。そんな会社帰りの光景。平日の夜、日本において多々ある光景でした。

 

 

飲みの会話に心が踊らない

もちろん僕も面白いと思った時には笑います。話を振られれば喋ります。ただ、根本的にその場で繰り広げられる他愛のない話にどうしても心がついていかない。心が踊らない。僕もお酒を飲んでいるので、ある程度気分は高揚してるはずなのですが、その会話がまるで永遠のように感じられます。時の流れが遅くなったかのように鈍化します。これを永遠と続けて何の意味があるのしょうか。仕事で削ぎ落とされた分をこの酒の場で埋めてプラスマイナスゼロ。それに一体何の意味があるのでしょう。

 

意味なんてなくていい。それがコミュニケーションであり共同体ではないか、と言われてしまうかもしれません。それはそうなのかもしれません。そこに何かしら「愛」が含まれていればそれで十分なのかもしれません。

 

 

末期の目で自分を表現し続けます

要は、僕にはそんな他愛のない会話に対する感度が低いのです。そんな話をいつまでも毎日のようにして何になるというのか、という煮えたぎった思いが心に渦巻きます。

 

他愛のないことに感度が低い代わりに、この世界の片隅にぽっと現れる美しい光景などに対しての感度は高いのです。意識せずとも自分の今までの人生はその感度を育てるためにあったのでしょうか。その末期の目のような感度を研ぎ澄まして、自分を表現し続けていくしか他ないのでしょうか。

 

突き抜けるか否か。それはもう自分次第なのです。

 

 

 

以上

かふか

病んでる人は、自己表現した方がいい。というか向いている。

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かふか です。

 

最近カメラを買いました。一眼レフカメラ。きっかけは他のカメラ好きな人のブログを見ていて、素敵な写真とともに文章を連ねている様がいいなあと思ったからです。

 

みんな自己表現したい。病んでいる人は向いてる。

ただ、理由はそれだけではありませんでした。結局僕はこの日常この世界を、カメラで切り取ることによって、自己表現してみたかったのです。現実をえぐってみたかった。現実をえぐれるような写真を撮る。これがカメラビギナーである僕の当面の目標です。結構大それたこと言ってるなあ。まあ、文章を綴る方が自分としては1番しっくりくるのですが。

 

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ブロガーにしろ写真家にしろ小説家にしろ芸術家にしろ、結局みんな自己表現をしたいと思っています。根底の動機はこれに尽きるのではないでしょうか。そして、心底純粋にその表現するという作業を継続できる人というのは、やはりそれを続けないとやっていけない人です。簡単に言えば、何かしら病んでいる人。病んでいるほどその負のエネルギーを使って自然と自己表現ができるのです。

 

村上   芸術家 、クリエ ートする人間というのも 、人はだれでも病んでいるという意味においては 、病んでいるということは言えますか ?

 

河合   もちろんそうです 。

 

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』Kindle版  No.989

 

 

個人的な病みを普遍化させる

今は亡き臨床心理学者の河合隼雄と村上春樹のこの対談では、さらにこう続きます。

 

村上   それにプラスして 、健常でなくてはならないのですね 。

 

河合   それは表現という形にする力を持っていないとだめだ 、ということになるでしょうね 。それと 、芸術家の人は 、時代の病とか文化の病いを引き受ける力を持っているということでしょう 。ですから 、それは個人的に病みつつも 、個人的な病いをちょっと越えるということでしょう 。個人的な病いを越えた 、時代の病いとか文化の病いというものを引き受けていることで 、その人の表現が普遍性を持ってくるのです 。

 

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』Kindle版 No.989, 994

 

うーん、なるほど、個人的な病いを超えて時代とか文化のような自分を少し超えた病いを引き受けるかあ。なかなか難しいことを。ただ、確かに著名な作家やアーティストのような人たちは、個人的な病いに普遍性を帯びさせることに成功した人なのでしょう。だから多くの人の心にささり、評価されるのです。

 

要はこれって、簡単に言うと、自分の病みをうじうじと自己顕示欲の塊だけで語るのではなく、自分からふと離れる視点を持てた人、ふと離れてそれを語る手段を得た人なんじゃないでしょうか。

 

もちろんごく稀な天才は、100%自己顕示欲の表現だけで、自ずと普遍性を帯びさせることができるのかもしれませんが。

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An Art Show Explores How Jackson Pollock Learned To Drip | The Huffington Post

※画家のジャクソン・ポロックなんかはそんな天才に思えます。

 

 

僕にはまだ自己表現に対する明確な答えを持ち合わせてないですが、ブログを書くと言う行為もたぶん、「自分の心の叫びを語りつつも、それをちょっと客觀的に見てみること考えてみること」が大切なのではないでしょうか。

 

と言いつつも、そんな事を真剣に考えていては書けそうにないので、好きなように今後も書くのですが。

 

 

以上

かふか

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

 

 

村上春樹にみる書評の書き方/ あらすじの羅列に何の意味があるのか?

diary writing

かふか です。

 

多くの人がブログなどで書評を書いています。僕自身も含めて。

今回はそんな書評の書き方について、僕の考えを書いてみたいと思います。

 

"エモく"ない書評は好きではない

僕が見る限り、少なくない数の書評が単なるあらすじの羅列になっている気がします。あらすじをとりあえず並べて、最後にちょこっと自分の感想を書いて、それで満足気に「どうですかこの本?」みたいな書評。

 

いや、別に人それぞれの自由なのでどんな書評でもいいのですが、なんかつまらない。その本自体が輝いていても、その書評が文字の羅列では、その本を手に取るきっかけが減ってしまうのではないでしょうか。

 

とにかく、僕は書き手の感情の起伏が感じられない、俗に言うと"エモく" ない書評があまり好きではないのです

 

 

食欲をそそる書評

村上春樹は自身で、書評についてこう語っています。

筋をずらずらと書いてしまう書評って困ったものですね。とくに結末まで書いてしまうというのは問題があります。僕は自分の本の書評は読んでいませんので、この件で具体的に判断はできませんが、一般論で言って、書評というのは人々の食欲をそそるものであるべきだと、僕は思うんです。たとえそれが否定的なものであったとしても、「ここまでひどく言われるのならどんなものだかちょっと読んでみよう」くらい思わせるものであってほしい。それが書評家の芸ではないでしょうか。

 

『少年カフカ』p232

 

食欲をそそる書評

 

これです。正にこれ。

 

その本を褒めようが褒めまいが、その書評を書いている人が己の魂をぶつけないで、本当の書評と言えるのでしょうか? 書評において、本のあらすじなんて、その本を読めば分かるのだから、どれだけの熱量をもって多くの人をその本に誘い込めるかが勝負なのではないでしょうか。

 

だから僕は書評においてテンプレートを設けてるものが好きでない。「まず、その本の印象的だった部分を記事の頭で簡潔にpick upして、、その後にそれを細分化して、、ほにゃららほにゃらら」みたいなやつです。それより「私はこの本を読んでから良くも悪くも人生が狂わされてしまって、、」みたいなやつの方が断然いい。まあそこまで極端でなくてもいいのですが。

 

たぶんこれは本に限らず、映画のレビューにせよ、アートの鑑賞レビューにせよ同じです。どれだけ書評の書き手が自身の感情を揺さぶられた体験を言語化できるか。それを伝えられるか。書評とは、それに尽きるのではないでしょうか。

 

 

以上

かふか

 

※ちなみに僕の村上春樹作品の書評、というか感想は例えば以下なんか感情Maxです(笑) 

 

myeinst.hatenablog.jp

内田樹『村上春樹にご用心』にご用心/ 「崇拝者」による春樹論

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かふか です。

 

村上春樹ファンの僕が見るに、村上春樹の批評家として有名でかつ共感できるのは学者の内田樹です。僕は基本的に村上春樹の批評とかはあまり鵜呑みにしたくないのですが、ファンとしてはやはり気になります。

 

 

主観的な「崇拝者」による春樹論

内田樹の村上春樹論で有名なのが『村上春樹にご用心』という本です。今では増補版『もういちど村上春樹にご用心』が文庫本で出ています。ん? アンチ村上春樹の本かな?と思いきや、真逆です。

 

大学教授でもある内田樹は、村上春樹の小説が素直に好きなようです。多くの批評家に見られる、剣を振りかざすかのような論評ではなく、一読者として論じています。もちろん批評的視点も保ちつつ。そこが、僕がこの人の村上春樹論は信頼できるかなと思った所以です。

 

僕はご存じのとおり「評論家」ではなく「ファン」「崇拝者」というポジションから村上春樹を論じています。〔中略〕

(卒論でも、そんな書き方をしたら、ふつうゼミの先生から「そんなのは論文とは言わんぞ」と叱られます)。でも、僕はこういう書き方も世の中には必要なんじゃないかと思っています。

 

『もういちど村上春樹にご用心』p4

 

崇拝者(笑)。潔くて良い。というか一ファンとして論じなくては、批評なんてクソくらえだと言う春樹さんからは蹴飛ばされるでしょう。

 

 

村上作品に感じる"死"の影

さて、『もういちど村上春樹にご用心』の中で僕が一番深く共感した部分は以下の文章です。

 

村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している。

 

『もういちど村上春樹にご用心』p142 

 

『ノルウェイの森』なんかが分かりやすいですが、村上作品には基本的に”死”の影がそこらじゅうに横たわっています。それによって主人公は翻弄されながらも、何とか自分なりの生き方を模索していきます。

 

デビュー作『風の歌を聴け』のような一見 popな小説であっても、僕はそれを随所に感じてしまうのです。鼠と《僕》は、過去の膨大な(時に無意味とも思えるくらい不条理な)死者の影を背負いながら、彼らが既に去ってしまった後、とりあずビールを飲もうという諦観の中でのらりくらり生きているように思えてならないのです。

 

参考までに:

myeinst.hatenablog.jp

 

ただ、興味深いのが、初期村上作品ではそのように不条理性・空虚性を文学的に描くという所までで留まっていたのに対し、後期作品からは明らかにその世界と対峙していくという意志が感じられます。これがよく言われる、村上作品の世界に対するデタッチメント(無関与)からコミットメント(関与)へ移行していったという事なのでしょう。村上春樹自身のこの決定的な契機は、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件です。これについては、また他の記事に書きたいと思います。

 

 

不条理文学の継承

と、少し脱線してしまいましたが、まあとにかく、村上作品は不条理文学だと思うのです。フランツ・カフカやカミュのような文学を、popかつシューリアリスティック(超現実)的に受け継いだ文学だと思います。それだけで語ってしまっては、他のハルキストに怒られそうですが、村上春樹の作品の核はこんな感じだと思うのです。

 

 

以上!ちょっと難しいところもありますが、『もういちど村上春樹にご用心』読んでみてはいかがでしょうか? ファンとしては、とても楽しめました。

 

以上

かふか 

現代アートの島「直島」/ 地中美術館のジェームズ・タレルに驚いた

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かふか です。

 

現代アートの島、香川県の「直島」に行ってきました。僕は普段そこまで美術館に行く方ではないですが、「アートは実際に足を運んで、体感しろ。」と言われるのが今回でよく分かりました。ゾクっときてしまった。

 

以下に、その1作品イチオシを紹介します。

 

光の芸術家ジェームズ・タレル

僕が1番「こいつはやばい。ホンモノだ。」と思ったのが、地中美術館に展示されているジェームズ・タレルの『オープン・フィールド』という作品。

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 地中美術館 | アート | ベネッセアートサイト直島

 

この作品は一見、階段の上に青い平面があるだけのように見えますが、奥行きがありその空間の中に入れます。カメラ撮影禁止なので、言葉で説明するしかないのですが、とにかく僕は他の鑑賞者と一緒に案内人に導かれるまま中に入りました。

 

中は直方体の箱になっていて、青色の光が空間に四方八方反射し満ちていました。青色の蛍光灯が満ちた空間に僕らは呆然と立っていました。とても神秘的な空間でした。なるほど、現代アートは体感するものなんだなあと感心しました。

 

いやしかし、それだけではなかったのです。案内人に聞いたところ、僕が行き止まりと思っていた奥の平面は、実は平面でなく空間がさらに広がっているというのです。僕は思わず「え?」っと声に出してしまいました。案内人曰く、作者(と制作関係者?)以外、そのさらに先がどうなっているかは知らないといいます。ただ言えるのは、その先には空間が続いているが、目の錯覚で行き止まりの平面に見えるということだけでした。

 

その事実を知った時、その立ち入り禁止の奥は、死後の世界とか云々の虚構世界へと繋がってるんじゃないかと想像してしまったほどです。そのくらい驚きました。そう僕が感じたのも、ジェームズ・タレルの意図に、もはや含まれていたのでしょうか。

 

他にも、韓国の李禹煥というアーティストの作品に感心したのですが、僕の中では圧倒的にジェームズ・タレルが1番でした。

 

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アートは自然に帰っている

それで見終わった後、直島の自然の風景を眺めながら思ったのが、アートって今や究極の断捨離、究極のミニマリズムに向かってるのではないかということ。もうこの高度に発達し複雑に絡み合った現代社会からいかに離脱するかを志向してるんじゃないかって。「自然に帰る」の方向なんじゃないかって。

 

そしたらこの直島の風景こそが1番の作品なんじゃないかと思ったのです。「いやいやそれってなんなんだよ」と自分でも笑ってしまったのですが。

 

でも見当違いではないと思うんです。なんせ、直島自体が「自然と人間との関係を考える場所です」と謳ってるのですから。

 

結局、僕らにはもともと自然というものが既に与えられていて、それ以外は特別何もいらないのかもしれません。僕らの目の前に既に存在する「自然」こそが、1番のアートなのかもしれません。

 

 

以上

かふか 

映画『君の名は。』を見て、村上春樹を思った / "セカイ系" という共通点

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http://www.kiminona.com/index.html

※ネタバレ少しあり

 

かふか です。

 

今さらながら、映画『君の名は。』を見てきました。普段そこまで映画は見ないのですが、これだけは見ておかないと2016年という年を越せないと急に思ったからです。 

 

 『君の名は。』と村上春樹作品は、ともにセカイ系

で、とりあえず『君の名は。』を見て、その映像美や斬新なストーリー展開に感動したのですが、それ以上に見終わった後、この映画の世界観と村上春樹の世界観の共通点に思いを馳せてしまいました。

 

『君の名は。』のような世界観を世間では "セカイ系" と呼ばれています。最近の日本アニメーション映画に顕著なこの世界観、この言葉は一度でも耳にした事があるのではないでしょうか。

 

セカイ系の定義は、Wikipediaによると

 「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」

 

「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。

 

Wikipedia

 

ということです。

 

これを『君の名は。』 でいうと、「お互いに入れ替わる 瀧と三葉という2人の個人的問題が、隕石衝突という1つの"世界の危機"を巡り展開されていく」という事になります。

 

そして、村上春樹でいうと、まさに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 の物語です。主人公《僕》の周りで起こる物事が、社会の出来事や歴史などをスッと飛ばして、直接世界の終りへと繋がる物語だからです。

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

 

 

 村上春樹の小説は全てセカイ系

というか『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に限らず、『羊をめぐる冒険』も『ノルウェイの森』も『海辺のカフカ』も『1Q84』も、村上春樹の小説には "セカイ系" がその物語の根底に流れています。どの小説も基本的に、一般社会とは距離をとっている個人的な生き方を貫いている主人公が、その自我を世界の果てへと繋げていく物語だからです。

 

 

セカイ系は、今に生きる僕らの社会に近い

このように考えていくと、『君の名は。』のような映画や村上春樹の小説が現代の人々の共感を呼ぶのも分かります。

 

現代を生きる僕らは、インターネットや高度に発達した科学技術によって、自分の思考・行為を世界のどこにでも届けることができます。自分の考えを世界に発信したければ、インターネット上のSNSやブログで発信すればいいし、世界の果てのような島に行きたければポチッと航空チケットを買えばいいだけです。

 

 ただ、そのような個人が社会的規制やフィルター無しに、世界へ"むき出し" にされている状況は、自由であると同時に生きづらかったりします。

 

そんな僕らのモヤモヤ感に対して『君の名は。』や村上春樹の小説は、直接的では無いにせよ、何か訴えかけてくるものがあるのです。

 

 

以上、『君の名は。』を見てこんな事を思いました。

かふか

インストバンドなら toeを聞け!!/日本の誇り/ ポストロック【名曲厳選】

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 http://blog.livedoor.jp/number3104/archives/65854686.html 

 

かふか です。

 

今回は日本が世界に誇る "toe" (トー) というインストロックバンドを紹介します。全力で紹介します。toeは、まさに音楽という名の現代アートです。(インストバンド好きの人にとっては、もはや説明不要かもしれませんが)

 

 toeが日本のバンドということを誇りに思う

 toeは現在僕が一番好きなインストバンドで、インスト界隈では世界的にも有名です。唯一無二のオリジナリティを放っています。初めて聴いた時、こんな凄い日本人バンドがいたのかと驚きました。日本の音楽も捨てたもんじゃないなと。

 

2本のギターが奏でる美しいアルペジオと、繊細かつ まるで歌ってるかのような華麗なドラミングが印象的なバンドです。"芸術"と呼ばれるにふさわしいバンドです。

 

と、まあ言葉だけでは伝わらないかと思うので、早速彼らの音楽を聴いて下さい。

 

以下、是非聴いてほしい5曲を厳選しました。

 

 「孤独の発明」

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まずtoeの代表曲の1つ「孤独の発明」

 

印象的なギターリフと繊細なドラミングで始まるこの曲。曲名の通りまさに「孤独」というものについて、何かを語りかけてくるかの様です。絶妙に重なり合う2本のギターアルペジオも然り、歌ってるかのようなドラミングも然り。素晴らしい。

 

 「むこう岸が視る夢」

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続いて、「むこう岸が視る夢」という曲。

 

イントロから「う〜ん、いやカッコ良すぎでしょ!w」と唸りたくなるドラムフレーズ。とにもかくにも、toeはドラムが素晴らし過ぎるのです。日本が世界に誇るドラマー柏倉隆史。恐るべしです。

 

静かに始まった曲調は、ブレイクと度重なる展開フレーズを経て徐々にボルテージを上げていきます。静から動へ変化を遂げる時、バンド全体の感情はむき出しとなり、音楽という名の芸術に昇華されます。

 

 「Path」

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Liveの最後に演奏する曲として、有名な「Path」

 

疾走感溢れるギターリフで始まり、序盤から超特急なこの曲。勢いよく前半を終えたかと思いきや、delayエフェクターを巧妙に使い、新たな境地へと曲を運んで行きます。

 

後半では、ここまで積み上げた構成も全て破壊するかのごとく、この世の不条理もこの世の秩序も雲散霧消される所にまで至ります。後に残ったのは、彼らが奏でた音楽の余韻だけ。

 

 「1/21」

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「1/21」という曲。

 

はじめから最後まで5分間、ほぼひたすら同じギターフレーズが繰り返される。繰り返されるにつれ、徐々に高揚感という"ゾーン"に吸い込まれていきます。何も語らない。ひたすらに奏でる。その後に見える景色は何なのでしょうか。

 

 「エソテリック」

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最後は「エソテリック」という曲。

 

何か不穏な感じで始まり、不穏なフレーズが展開されていく。この曲はtoeの中でも唯一と言っていいほど、これでもか!とギターが歪まされます。いや、歪まされる一瞬があります。露骨なギターの歪み音というのは、この曲のように、ここぞ!という時に使われるべきなのです。僕はこの曲をLiveで見ましたが、その歪みの瞬間にギター山㟢の背中に竜を見ました。 いやホントにw  冗談抜きです。

 

 「グットバイ」

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最後と言っておきながら、これを紹介しないとtoeを紹介した事にならないので、おまけです。ホントにこれで最後です。

 

おそらく世界で一番人気がある曲「グットバイ」

もう説明は入りません。聴いてください。

 

 

以上、僕が全力でオススメする日本インストロックバンド toe でした。

お読み頂きありがとうございます!

 

 

以下、僕のおすすめアルバムです。

 

toeのよさをまず知りたいなら、この二作です! 

 

最近のtoeです。

 

映像でLIVEを観たいなら、このヨーロッパツアーのDVDがおすすめ。

 

 

以上です!! 

村上龍が語る村上春樹の魅力/ なぜ村上春樹は多くの人に読まれるのか?

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かふか です。

 

村上春樹は世間で色々と批判されたり、逆にその魅力が語られたりしてますが、その中でも僕が1番興味深いと思う考察は、村上龍によるものです。今回はそれを紹介します。

 

 爆笑問題の太田は、村上春樹が大嫌い

突然ですが、お笑いコンビ爆笑問題の太田さんを知ってますか?よくテレビに出てるあのひょろっとした人。彼は小説が好きな芸人としてかなり有名で、毎月数十冊の小説を読むそうです。特に太宰治が好きらしい。

 

そんな彼は、村上春樹が大嫌いなのです。村上作品の主人公のあのクールで喜怒哀楽がない感じがどうも嫌いなのだと言います。うん、分からなくもないですが・・笑

 

太田は「村上春樹のどこがつまらないのか?」という事をラジオで延々と語っています。村上春樹ファンの僕としても、非常に興味深く、面白く聞けます。

 

 

村上龍:「村上春樹は最大公約数が大きい」

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そのラジオの中で、村上春樹と奇しくも苗字が同じで、同世代作家の村上龍をゲストに迎えて、村上春樹について議論しているのがこの動画です。この中で村上龍が村上春樹について語っています。その考察がとても鋭いのです。

※動画5:00くらいまで

 

村上春樹の小説の一体どこが良いのか?なぜそんなに世界中で読まれているのか? という爆笑問題の太田の疑問に対し、村上龍はこう答えます。

 

「春樹さんは、すごく一般的なことを書いているから。最大公約数が大きいから」と。

 

僕はこれ聞いたとき思わず唸ってしまいました。なるほどと。その通りだと。

 

「一般的なこと」というのは村上龍曰く《自意識のゆれ》です。自分とは何だろう?とか この世界は何なんだろう?といった感じの疑問。自分がこの世界のどこに行けばいいのか、どこにたどり着けるのかという類の葛藤。

 

僕も同意ですが、村上春樹はひたすらこの《自意識のゆれ》を小説の中で描いてます。この矛盾と混沌に満ちた世界の中で自分はどう生きればいいのか?という問いに、直接的でないにせよ、物語を通して語っている気がするのです。物語という比喩を通して、とてもうまく。

 

そしてこの《ゆれ》は世界中の誰しも持っているものです。言語も人種も関係ない。最大公約数が大きいのです。だから村上春樹は世界中で読まれる。

 

さすが同じ小説家だけあって、鋭い考察をするなあと感心してしまいました。同時に、僕がなぜ村上春樹の小説に手を伸ばしてしまうのか少し分かった様な気がしました。

 

以上

かふか

英語多読のために村上春樹の英訳を薦める3つの理由

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かふか です。

 

僕は学生時代の留学中に村上春樹の英訳を読みまくって、英文リィーディング能力をかなりupさせました。TOEICでも900点を超えることができました。

 

僕が村上春樹の小説を元々好きだったことも大きいですが、英語学習者には村上春樹の英訳を読むことを強くお薦めします。特に「英文はある程度読めるけど、なかなか読むスピードが上がらない。多読を通して英語力を向上させたい」という方に。

 

以下にその理由を3つにまとめました。

 

 

1. 村上春樹の文章はシンプルでリズムがあり、読みやすい。これは、英訳でも同じ。

 

まず第一の理由がこれです。読んでみると分かりますが、村上春樹の文章にはあまり難しい表現が無く、シンプルで読みやすい。現代に生きる僕らにも分かりやすい言葉で書かれています。

 

他の英訳されている著名な日本人作家の文章には、日本語独特の曖昧さや華麗さがあり、読みにくかったりしますが、村上春樹は日本語の美しさなどにこだわっておらず、小説好きでなくても文章に目が追いやすいのです。このように原文の日本語に独特のニュアンスがあまりないので、英文に翻訳されても同じくシンプルで読みやすい。

 

というか、村上春樹自身がもともと日本文学が好きではなく、海外文学ばかり読んでおり、デビュー作の『風の歌を聴け』の冒頭は最初に英語で書いて、その後日本語に翻訳したくらいです。よっぽど日本語の言語空間から逃げたかったのでしょう。英訳されるために生まれた作家であるといっても過言ではありません

 

村上春樹の文章が読みやすい要因は、シンプルな文体に加えて、文章にリズムがあることが挙げられます。村上春樹自身エッセイで語っていますが、彼は文章のリズムをとても大事にしています。本人曰く、音楽(特にJazz)の流れを感じながら文を書いています。僕も彼の小説を読んでいて、確かにそれのリズムを感じます。

 

なんというか、ポン ポン ポンと文を置いていって、次へ次へと文を綴り続けていく感じです。ちょうどJazzのアドリブがいつまでも流れのままに続いていくのと同じように。

 

 

2. 原文が日本語で、翻訳された英文なので、これまた読みやすい

 

これはホントに大きいです。

 

というのも、アメリカ文学などの英語ネイティブが書いた小説に挑戦しようとしても、全て読み切るのはかなりキツいです。単に英語を読めるだけでなく、英語という言語そのもののニュアンスと英語文化の背景を理解していないと物語を読み取れないからです。

 

 対して、村上春樹の英訳はあくまで日本人によって書かれた文章であり、それが翻訳というフィルターを通してできた英文です。”ホーム”は日本なので、日本人の僕らにとって読みやすいのです

 

フィルターといっても、原文のニュアンスは変わらず楽しめるのが、村上春樹の英訳ならでは。しかも、ほぼ全作品英訳されているので英文読解のネタが切れることはないでしょう。

 

 

3. 英訳だと村上春樹嫌いな人でも読める

 

ここまでの説明を読んでも、「僕(私)、村上春樹の小説は好きじゃないんで」と言う人がいると思います。「あのクールでキザな感じがどうも・・」という人。

 

そんな方に朗報ですが、村上春樹の小説は、英文で読むと不思議とその嫌な感じを受けません。なんででしょう、英語という簡素でシステマティックな言語に変わるだけで、その嫌な感じの成分が薄まるのです。これは実際に読んで感じてもらうしかありません。是非一度、英訳を読んでみてください。

 

 

村上春樹の英訳おすすめです!

 

かふか

村上春樹の真の魅力/ 村上春樹作品は読者の心にささる

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僕の人生の隣には、いつも村上春樹作品があった 

こうして僕は村上春樹について、ああだこうだブログを書いています。

 

僕のこのモチベーションは、「何かしら自分が誰かの役に立てないか?」という問いから始まりました。

 

直感的に村上春樹について書こうと思いました。人生の良い時も悪い時も一緒に過ごした村上春樹の作品の良さを多くの人に伝えれたらと。それによって、もしかしたら誰かの助けになれるかもしれないと。

 

 

村上春樹の作品は読者の心に刺さる

世間では村上春樹の小説は、変にオシャレだとか主人公がクール過ぎるとか批判されますが、それは(その批判が正しいとしても)村上作品の真の良さに比べたら本当に小さいことに過ぎません。

 

村上春樹の真の魅力というのは、物語が読者の心の奥底にささるということです。

 

村上春樹論で有名な内田樹も自身の著作で述べていますが、村上春樹の小説は本当に人生に打ちひしがれている時にこそ、よく響くのです。理由を言葉で説明するのは難しいですが、じわぁーっと物語が読者の心を打つ。癒す。励ます。読者の背中を押してくれます。

 

参照:

myeinst.hatenablog.jp

 

 

個人的には後期作品をお薦めします。特に『海辺のカフカ』を。

そんな村上春樹の魅力を感じてもらうには、初期作品ではなく、後期作品を読むことを僕は薦めます。初期作品の物語は読者というものがあまり意識されておらず、少し置き去りにされた感じがするからです。後期作品の方が、もっと読者に対して関わろうとしています

 

 

後期作品の中だと、個人的には『海辺のカフカ』を薦めます。春樹ワールドにおいてフィクションと現実が見事に昇華され、15歳の家出少年の成長を通して、とても深く勇気づけられるからです。僕自身も何度も人生を救われてます。

 

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を村上春樹の最高傑作と呼ぶ人も多いですが、(それは一理ありますが)読後の読者の生き方に影響を与えるという意味では『海辺のカフカ』の方が勝っていると思います。どの作品が勝っていて劣っていると言うのはあまり意味がないことですが。

 

参照:

myeinst.hatenablog.jp

 

 

今の不透明な時代に必要な作家

村上春樹は、この先行き不透明で混沌とした時代に必要な作家です。

 

時代の要請に迫られて必然的に登場してきた作家だと僕は思っています。海外で読者が多いのもよく分かります。冷戦構造が崩れて以降、誰もが明確に分かる指針や理想が無くなり、どう生きていけばいいのかを各個人で決めていかねばならない。村上春樹の小説は、そんな時代に生きる世界中の人々の心にささるのです。

 

村上春樹の作品はある意味で、どんな自己啓発本や言葉よりも、深く読者の心に届くものだと信じています。そんな村上春樹について今後もあれこれとブログを書いていきたいと思います。

 

 

かふか

村上春樹『羊をめぐる冒険』感想文/ 村上春樹が本気で書き始めた作品

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村上春樹が本格的に長編小説に歩みを切った作品

『羊をめぐる冒険』は、鼠と主人公《僕》をめぐる村上春樹初期三部作の三作目にあたります。

 

『羊をめぐる冒険』を書くにあたり、村上春樹は長年経営してきたジャズ喫茶「ピーターキャット」を友人に譲り、専業作家として歩み始めます。後のライフワークであり彼の人生哲学にまで至るランニング《走るということ》を始めたのもこの時期です。

 

このような経緯もあってか、本作には『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』には見られなかった「物語を書くんだ」という意気込みが感じられます。きちんと一つの長編小説として物語を構築するんだという意志です。

 

参照:myeinst.hatenablog.jp

 

文体も前二作よりも冗長さが減り、少しタイトになっています。とにかく書きたいようになんでもいいから書くという意識から、読者というものを前にして、少しずつ言葉を選び始めました

 

基本的に『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』と同様に現代の空虚感を描いていること変わりはありませんが、本作ではそこから何か掴み取りたいという意志が感じられます。主人公の《僕》が羊を探すのと同じように。

 

 

春樹ワールドの現れ

又、非現実的な人物をリアルに描き出すあたりは、春樹ワールドが既に本作品において現れています。現実ではありえない人物設定ですが、いとも簡単に現実と虚構の境界線を超えてしまいます

 

上巻では、現実とフィクションの狭間で《僕》の羊をめぐる冒険が始まります。

 

 

 

↓下巻の感想は以下です↓
※結末ネタバレあり

 

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主人公《僕》、ひいては村上春樹の0の出発点

読後ほんとに何と形容していいのか言葉選びに苦しむ作品ですが、羊をめぐって、結局《僕》はどこにたどり着いたのでしょうか? どこにもたどり着いてないかもしれないし、どこかにたどり着いたのかもしれない。

 

ただ、1つの言えるのは《僕》と鼠の物語は終わったということです。1つの時代が終わったということ。鼠は何かしらこの "現代の歪み" のようなものによって自死しました。彼の死はその象徴のように思えます。

 

そして《僕》はこの鼠の死を受けて、以後生きていくことになります。《僕》は今までの人生の中で様々なものを失ってきました。最後に友である鼠をも失いました。失い続けた果てで、《僕》はこの0の地点から出発することになります。

 

これは村上春樹自身が本格的に小説家として出発した地点と同じに思えてなりません。この地点から世界にコミット(関与)する地平線へと向かっていきます。本当の意味で、村上春樹の作家人生はこの『羊をめぐる冒険』から始まったのです

  

以上

かふか 

村上春樹『風の歌を聴け』感想文/ 村上春樹の才能が冒頭数ページで分かる

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村上春樹の記念碑的作品であり、宣戦布告の作品

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。(p1)

 
この言わずと知れた書き出しで始まる『風の歌を聴け』は、村上春樹のデビュー作です。今や世界中で読まれている村上作品の中では記念碑的なものとなっています。
 
現在に至るまでの村上春樹作品を読んでから、このデビュー作を改めて読むとまさにその感を強くします。特に鼠が登場するまでの冒頭の数十ページは、初期村上春樹のエッセンスの凝縮であり、彼の文章を書くということに対する宣戦布告のようにも見えます。
 
文章がきれまくっており、殴り書くように書きたいように書いたという印象を受けます。現在の村上春樹の文体と比べると、とても挑戦的です。
 
例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない (p1)
 
この鋭利で唐突な比喩を当時の文壇はどう消化したのでしょうか。
 
1979年にこの本が世に出た時、(当時の芥川賞選考委員の丸谷才一が言った通り)この作品は「一つの事件」でした。この乾ききった挑戦的な小説は日本文学界において異端でした。
 
 

”書くことがない”ということが書かれた小説

『風の歌を聴け』という小説は、まさに  "書くことがない"  ということが書かれています
 
戦後から1960年代に至るまで、若者が学生運動などで理想へと向かっていた時代は終わりを告げ、世界の目に見える形での対立もまもなく終わろうとしていました。若者にとって思想、理想は無く精神的土壌は焦土と化していました。
 
その空っぽな時代の始まりを、この村上春樹という29歳はこのデビュー作でうまく表現したのです。いや、空っぽな時代の始まりというより、もしかすると初めから何も無かったのかもしれません。
 
「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。(p17)
 
この虚無的感覚がこの作品を含む初期村上春樹の作品において徹底的に貫かれています。
 
何もないということ。何も書くべきことがないということ。なので、とりあえずビールを飲むということ。そして少しのブラックユーモア。
 
このひたすら厭世的な中で、冒頭において僕が1番好きな一節があります。
 
弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。付け加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。(p8-9)
 
『風の歌を聴け』が刊行されてから、30年以上経つ今、村上春樹という作家は確かに平原に還ったように思えてなりません。
 
 
以上。 
かふか

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)