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村上春樹『風の歌を聴け』感想文/ 村上春樹の才能が冒頭数ページで分かる

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村上春樹の記念碑的作品であり、宣戦布告の作品

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。(p1)

 
この言わずと知れた書き出しで始まる『風の歌を聴け』は、村上春樹のデビュー作です。今や世界中で読まれている村上作品の中では記念碑的なものとなっています。
 
現在に至るまでの村上春樹作品を読んでから、このデビュー作を改めて読むとまさにその感を強くします。特に鼠が登場するまでの冒頭の数十ページは、初期村上春樹のエッセンスの凝縮であり、彼の文章を書くということに対する宣戦布告のようにも見えます。
 
文章がきれまくっており、殴り書くように書きたいように書いたという印象を受けます。現在の村上春樹の文体と比べると、とても挑戦的です。
 
例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない (p1)
 
この鋭利で唐突な比喩を当時の文壇はどう消化したのでしょうか。
 
1979年にこの本が世に出た時、(当時の芥川賞選考委員の丸谷才一が言った通り)この作品は「一つの事件」でした。この乾ききった挑戦的な小説は日本文学界において異端でした。
 
 

”書くことがない”ということが書かれた小説

『風の歌を聴け』という小説は、まさに  "書くことがない"  ということが書かれています
 
戦後から1960年代に至るまで、若者が学生運動などで理想へと向かっていた時代は終わりを告げ、世界の目に見える形での対立もまもなく終わろうとしていました。若者にとって思想、理想は無く精神的土壌は焦土と化していました。
 
その空っぽな時代の始まりを、この村上春樹という29歳はこのデビュー作でうまく表現したのです。いや、空っぽな時代の始まりというより、もしかすると初めから何も無かったのかもしれません。
 
「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。(p17)
 
この虚無的感覚がこの作品を含む初期村上春樹の作品において徹底的に貫かれています。
 
何もないということ。何も書くべきことがないということ。なので、とりあえずビールを飲むということ。そして少しのブラックユーモア。
 
このひたすら厭世的な中で、冒頭において僕が1番好きな一節があります。
 
弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。付け加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。(p8-9)
 
『風の歌を聴け』が刊行されてから、30年以上経つ今、村上春樹という作家は確かに平原に還ったように思えてなりません。
 
 
以上。 
かふか

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

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