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内田樹『村上春樹にご用心』にご用心/ 「崇拝者」による春樹論

村上春樹

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かふか です。

 

村上春樹ファンの僕が見るに、村上春樹の批評家として有名でかつ共感できるのは学者の内田樹です。僕は基本的に村上春樹の批評とかはあまり鵜呑みにしたくないのですが、ファンとしてはやはり気になります。

 

 

主観的な「崇拝者」による春樹論

内田樹の村上春樹論で有名なのが『村上春樹にご用心』という本です。今では増補版『もういちど村上春樹にご用心』が文庫本で出ています。ん? アンチ村上春樹の本かな?と思いきや、真逆です。

 

大学教授でもある内田樹は、村上春樹の小説が素直に好きなようです。多くの批評家に見られる、剣を振りかざすかのような論評ではなく、一読者として論じています。もちろん批評的視点も保ちつつ。そこが、僕がこの人の村上春樹論は信頼できるかなと思った所以です。

 

僕はご存じのとおり「評論家」ではなく「ファン」「崇拝者」というポジションから村上春樹を論じています。〔中略〕

(卒論でも、そんな書き方をしたら、ふつうゼミの先生から「そんなのは論文とは言わんぞ」と叱られます)。でも、僕はこういう書き方も世の中には必要なんじゃないかと思っています。

 

『もういちど村上春樹にご用心』p4

 

崇拝者(笑)。潔くて良い。というか一ファンとして論じなくては、批評なんてクソくらえだと言う春樹さんからは蹴飛ばされるでしょう。

 

 

村上作品に感じる"死"の影

さて、『もういちど村上春樹にご用心』の中で僕が一番深く共感した部分は以下の文章です。

 

村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している。

 

『もういちど村上春樹にご用心』p142 

 

『ノルウェイの森』なんかが分かりやすいですが、村上作品には基本的に”死”の影がそこらじゅうに横たわっています。それによって主人公は翻弄されながらも、何とか自分なりの生き方を模索していきます。

 

デビュー作『風の歌を聴け』のような一見 popな小説であっても、僕はそれを随所に感じてしまうのです。鼠と《僕》は、過去の膨大な(時に無意味とも思えるくらい不条理な)死者の影を背負いながら、彼らが既に去ってしまった後、とりあずビールを飲もうという諦観の中でのらりくらり生きているように思えてならないのです。

 

参考までに:

myeinst.hatenablog.jp

 

ただ、興味深いのが、初期村上作品ではそのように不条理性・空虚性を文学的に描くという所までで留まっていたのに対し、後期作品からは明らかにその世界と対峙していくという意志が感じられます。これがよく言われる、村上作品の世界に対するデタッチメント(無関与)からコミットメント(関与)へ移行していったという事なのでしょう。村上春樹自身のこの決定的な契機は、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件です。これについては、また他の記事に書きたいと思います。

 

 

不条理文学の継承

と、少し脱線してしまいましたが、まあとにかく、村上作品は不条理文学だと思うのです。フランツ・カフカやカミュのような文学を、popかつシューリアリスティック(超現実)的に受け継いだ文学だと思います。それだけで語ってしまっては、他のハルキストに怒られそうですが、村上春樹の作品の核はこんな感じだと思うのです。

 

 

以上!ちょっと難しいところもありますが、『もういちど村上春樹にご用心』読んでみてはいかがでしょうか? ファンとしては、とても楽しめました。

 

以上

かふか