かふかログ

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僕にはサラリーマン飲み会での会話が刺さらない。

Drunk

かふか です。

 

以下内容、黒いかもしれません。

 

先日の記事に繋がるのですが、やはり僕は少し病んでいるのでしょう。普通のレールの価値観ではないのです

 

myeinst.hatenablog.jp

 

会社帰りの立ち飲み屋

今日は花金ということで、会社で上司後輩と飲みました。立ち飲み屋。そこで3時間ほどでしょうか。喋りながら飲んでいました。僕は普段、飲みに誘われても結構断るタイプなので、今日は例外的でした。たまたま気分が乗ったのです。

 

僕ら3人が飲んでいると、数人の常連客が隣に来ました。彼らも明らかにサラリーマンの会社帰りです。僕の上司と後輩もその立ち飲み屋では常連でした。つまり僕以外、皆顔が知れているという訳です。

 

前もって言っておきたいのですが、僕の上司と後輩はとても良い人です。僕にとって特別興味惹かれるような人たちではないですが、悪い人達ではない。見たところによると、隣に来た常連客もそのようでした。

 

彼らは、仕事の疲れであったり、家庭の愚痴であったりと、それを軽やかなジョークに変えて、笑いを肴にしてお酒を楽しんでいました。そんな会社帰りの光景。平日の夜、日本において多々ある光景でした。

 

 

飲みの会話に心が踊らない

もちろん僕も面白いと思った時には笑います。話を振られれば喋ります。ただ、根本的にその場で繰り広げられる他愛のない話にどうしても心がついていかない。心が踊らない。僕もお酒を飲んでいるので、ある程度気分は高揚してるはずなのですが、その会話がまるで永遠のように感じられます。時の流れが遅くなったかのように鈍化します。これを永遠と続けて何の意味があるのしょうか。仕事で削ぎ落とされた分をこの酒の場で埋めてプラスマイナスゼロ。それに一体何の意味があるのでしょう。

 

意味なんてなくていい。それがコミュニケーションであり共同体ではないか、と言われてしまうかもしれません。それはそうなのかもしれません。そこに何かしら「愛」が含まれていればそれで十分なのかもしれません。

 

 

末期の目で自分を表現し続けます

要は、僕にはそんな他愛のない会話に対する感度が低いのです。そんな話をいつまでも毎日のようにして何になるというのか、という煮えたぎった思いが心に渦巻きます。

 

他愛のないことに感度が低い代わりに、この世界の片隅にぽっと現れる美しい光景などに対しての感度は高いのです。意識せずとも自分の今までの人生はその感度を育てるためにあったのでしょうか。その末期の目のような感度を研ぎ澄まして、自分を表現し続けていくしか他ないのでしょうか。

 

突き抜けるか否か。それはもう自分次第なのです。

 

 

 

以上

かふか